このサイトでは、中華人民共和国の東北部にある世界遺産について説明しています。日本との関係が悪かったり、国家による人権侵害について話題になったりと悪いイメージも多い中国ですが、それはあくまで政治的な話。歴史的・文化的な側面から見た中国はまさしく東アジア随一の魅力ある国です。そもそも極東・東南アジアの文化はほとんどが中国文化の模倣から始まっており、東アジアがヨーロッパにない独自文化を醸成できたのは正
このサイトでは、中華人民共和国の東北部にある世界遺産について説明しています。日本との関係が悪かったり、国家による人権侵害について話題になったりと悪いイメージも多い中国ですが、それはあくまで政治的な話。歴史的・文化的な側面から見た中国はまさしく東アジア随一の魅力ある国です。そもそも極東・東南アジアの文化はほとんどが中国文化の模倣から始まっており、東アジアがヨーロッパにない独自文化を醸成できたのは正に中国あってこそなのです。それでは個々の世界遺産に先立ちまして、トップページで中国東北部の地理・歴史を追ってみましょう。
◎中国東北部の地理
一般に中国東北部と言った場合、遼寧省・吉林省・黒竜江省の3地域と内モンゴル自治区の一部を指します。当サイトでも一般的な定義に倣い、こちらでは上記3省+内蒙古の一部に存在する世界遺産について触れていきたいと思います。
この地域は満州という名称でも知られていますが、満州という言葉が地域名を指すのは日本や欧米においてのみだということを覚えておいてください。中国では満州民族を指す言葉としては用いられますが、中国東北地方を「満州」と呼称することは忌避されています。これは、旧日本軍による傀儡政権――満州国の名称を想起するためであり、特に日本人が「満州」の言葉を用いると侵略的・侮辱的と見なされる恐れがあります。(日本国内で気にする必要はないと思いますが、中国旅行の際は注意しましょう)
また、東北部は対日感情が比較的良好なことでも知られています。これは、日本軍統治下の満州国時代に日本の資本によってライフラインが整備され、近代都市が成立したことに関係しているようです。実際、日本に滞在する中国人の約35%が遼寧省・吉林省・黒竜江省の出身者で占められています。(東北3省の人口は中国全体の8%に過ぎないので、これは東北3省の出身者が好んで日本に在留していることを有意に示す数値と思われます)
1.遼寧省
省都は瀋陽。他の著名な都市としては大連が挙げられます。重工業が盛んな地域で、省内に油田があることでも有名。
ちなみに瀋陽は旧名を盛京と言い、清王朝が東北部で勃興した当時の都でした。(後に中国全土を支配し、北京に遷都)清朝末期には盛京から奉天と改められ、1929年に瀋陽となりました。(その後、日本軍によって満州国に編入されると再び奉天と改称。日本の敗戦で中華民国領に復帰した1945年にまた瀋陽となりました)
歴史的には、戦国時代の王朝:燕がこの地域から発生して拡大していきました。後に燕は秦によって滅ぼされ、以降は基本的に主要な中国王朝の一部として歴史に登場します。
2.吉林省
省都は長春です。
漢王朝の時代には、ツングース系扶余族の支配地として知られ中国文化圏には入っていませんでした。それから先も高句麗の領土であった時代が長く、高句麗の滅亡後は渤海の領地となりました。その後は契丹族、次いで女真族(満州民族)の支配地として金王朝の勢力圏となり、中国主要王朝の一地域となったのは清が建国された時代になります。(主要王朝といっても清は女真族の王朝ですから、この時点でも中国に同化してはいなかったということですね)
ちなみに長春は、満州国時代に首都と定められており、その間は新京と改名されています。
現在の長春は27の国立大学が建ち並ぶ学園都市としても有名で、農業や漁業から工業まで多くの産業が活発に行われています。
3.黒竜江省
省都はハルビンで、アムール川を挟んでロシアと国境を接する中国最北端の行政区分として知られています。
農業が非常に盛んで、中国の食料生産地として重要な役割を担っています。主な生産品目は黒大豆や小豆。
歴史的には吉林省と同様に、高句麗・契丹族・女真族などの支配地となっていた期間が長く、主要な中国王朝の一地域として確立したのは清朝の時代に入ってからのことです。
ハルビン駅では、日本の首相を歴任し、当時枢密院の議長だった伊藤博文が安重根に暗殺された事件が知られています。
以上、中国東北地方に属する3省の地理に関する情報でした。これらを知った上で東北部の世界遺産を見ていくことで、中国の文化をより深く味わえることでしょう。
◎中国東北部にまつわるエピソード
〜征服王朝:金の盛衰
皆さんは征服王朝という言葉をご存知でしょうか? これは、漢民族ではない異民族の王朝でありながら中国本土に領地を獲得した4つの王朝を指す言葉です。代表的な2王朝はモンゴル民族でありながら中国全土を支配した元・満州民族でありながら同じく全土を支配した清ですが、あと2つの征服王朝が中国史上に登場します。これらの王朝は、中国全土を獲得するまでには至りませんでしたが、漢民族固有の領土を一部獲得したことで征服王朝のカテゴリーに入っています。
そのうちの1つは契丹族の遼で、残る1つがここでお話しする金です。これらは、いずれも中国が宋の統治下にあった時代の王朝で、いずれも宋と激しく戦っています。
まずは、この時代に中国の主要王朝であった北宋について簡単に紹介しましょう。北宋は趙匡胤という軍人が建国した王朝で、五代十国の戦乱を平定して成立しました。激しい戦乱をようやく終わらせた趙匡胤は、国内の反乱を抑止するために徹底した文民統制(シビリアン・コントロール)を敷き、軍の肥大化を防ぐ統治を行っていました。北宋が成立する前の五代十国時代には数々の王朝が「軍の離反」や「地方の内乱」であっという間に滅んでいますから、この判断自体は賢明だったといえるでしょう。しかし、後の北宋皇帝は時代が移り変わったことにも構わず、文治主義の下に文化ばかりを追い求めてしまい、気付けば北宋は中国史上で最も軍事力の乏しい王朝になっていたのです。
北宋は異民族を平定することすら出来ず、契丹族:遼の南進を受けて苦戦しました。結局、北宋は「遼に絹・銀を贈る代わりに、北宋を兄・遼を弟とする盟約を結ぶ」という方法でこれを切り抜けました。(澶淵の盟)明らかに遼が優位な内容でありながら北宋が目上という形式を取っていることに違和感を感じる人も多いと思いますが、要するに北宋は実益よりもプライドを取ったということになります。その後、今度はタングート族:西夏が北宋に反旗を翻しますが、この時も北宋は同じ方法で和平に持ち込みました。やはり「北宋が西夏に絹・銀・茶を贈る代わりに、北宋を君主・西夏を臣下とする盟約を結ぶ」というものです。(慶暦の和約)
金が登場するのは、まさにこのすぐ後の時代です。金は女真族(満州民族)をまとめ上げて国家を樹立したのですが、その際に国境を接する遼とは激しい対立を繰り返してきました。その頃は上で述べた通り、北宋は遼に財貨を支払っている状態で、しかも燕雲十六州と呼ばれる中国固有の領土を遼が保有している状態にありました。(これが、遼が征服王朝に名を連ねている理由でもあります)要するに、金にとっても北宋にとっても、遼は都合の悪い存在だったわけです。そこで、金と北宋は同盟関係となり、遼を挟撃(挟み撃ち)することにしたのでした。遼の領地は分割し、燕雲十六州は北宋に譲るという条件を承諾した金は、遼に攻撃を仕掛けます。北宋の軍事力は相変わらずで燕雲十六州すら攻略できずにに苦戦していましたが、金が代わりに遼の首都である燕京を陥落させて遼を滅亡に追い込みます。勝利した金は約束通り(北宋がほとんど役に立たなかったにも関わらず)自分たちが攻め取った燕雲十六州を北宋に譲り渡しました。
しかし、この後に北宋が取った行動は驚くべきものでした。今度は金を牽制するため、遼の残存勢力と同盟したのです。要するに、北宋は異民族王朝すべてを弱体化させたいだけで、金との同盟関係を守る気などなかったわけですね。
金はすぐさま北宋に攻め込み、首都の開封を包囲します。金に全く歯が立たないことを悟った北宋は慌てて和平交渉に入ると、金は北宋を許して東北部へと戻りました。しかしながら、金の軍勢が撤退したとたんに北宋はまたも金に内紛を起こさせようと画策したのでした。ここに至って、金は北宋への総攻撃を開始。わずか40日で北宋の都:開封を陥落させました。ここに北宋は滅亡し、残った勢力は南側の江南地域へと逃げ延びて臨安を都として南宋を建国。宋の中華統一は崩れ、華北を金・江南を南宋が領有する時代へと移行したのです。後の和平交渉では紹興の和議が結ばれましたが、この内容は「南宋は金に歳幣を支払い、さらに南宋が金に対して臣下の礼をとる」というものでした。ここに至り、南宋はついに実利も名誉も失ったのでした。
しかし、金の繁栄が長く続いたわけではありません。中国東北部を支配していた頃は北宋を一蹴するほどの強国だった金も、中国の北部全域を統治するほどの国力はなかったのです。徐々に北のモンゴル勢力に駆逐され、国内で内乱が頻発するようになっていきました。折りしも、この時代におけるモンゴル帝国の皇帝(大ハン)はチンギス=ハン。金は抵抗も虚しく南へ南へと追いやられていきます。そして1234年、モンゴル帝国の2代皇帝オゴタイ=ハンが送り込んだトゥルイ(チンギスの四男)の攻撃によって金は滅亡したのでした。
しかし、満州民族として中華統一に後一歩と迫った金の偉業は、後の時代へと引き継がれます。金の滅亡から400年近くが過ぎた1616年、女真族をまとめあげたヌルハチが自国の国号を「金」と定めます。(北宋を滅ぼした時代の「金」と区別するために「後金」と書くのが普通です)これは偶然ではなく、かつて女真族を強国へと発展させた「金」への憧れがあったからに他なりません。この「後金」は急速に勢力を拡大して中国北部を制圧し、1644年には北京へと入城。金が成せなかった中華統一を果たすのです。「え? そんな後金なんて王朝あったっけ?」という方のために、そろそろ種明かしをしましょう。後金は1636年、国号を改めて別の名前に変わっています。さて、近代に中華統一を果たした女真族(満州民族)の王朝といえば……もう、お分かりですね? そう「後金」は、268年間にわたって中国を統治した、あの「清」の前身だったのです。
以上、中国東北部に関連した地理・歴史のエピソードでした。次ページからは、中国東北部の世界遺産を実際に見ていきたいと思います。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。
◎中国東北部の地理
一般に中国東北部と言った場合、遼寧省・吉林省・黒竜江省の3地域と内モンゴル自治区の一部を指します。当サイトでも一般的な定義に倣い、こちらでは上記3省+内蒙古の一部に存在する世界遺産について触れていきたいと思います。
この地域は満州という名称でも知られていますが、満州という言葉が地域名を指すのは日本や欧米においてのみだということを覚えておいてください。中国では満州民族を指す言葉としては用いられますが、中国東北地方を「満州」と呼称することは忌避されています。これは、旧日本軍による傀儡政権――満州国の名称を想起するためであり、特に日本人が「満州」の言葉を用いると侵略的・侮辱的と見なされる恐れがあります。(日本国内で気にする必要はないと思いますが、中国旅行の際は注意しましょう)
また、東北部は対日感情が比較的良好なことでも知られています。これは、日本軍統治下の満州国時代に日本の資本によってライフラインが整備され、近代都市が成立したことに関係しているようです。実際、日本に滞在する中国人の約35%が遼寧省・吉林省・黒竜江省の出身者で占められています。(東北3省の人口は中国全体の8%に過ぎないので、これは東北3省の出身者が好んで日本に在留していることを有意に示す数値と思われます)
1.遼寧省
省都は瀋陽。他の著名な都市としては大連が挙げられます。重工業が盛んな地域で、省内に油田があることでも有名。
ちなみに瀋陽は旧名を盛京と言い、清王朝が東北部で勃興した当時の都でした。(後に中国全土を支配し、北京に遷都)清朝末期には盛京から奉天と改められ、1929年に瀋陽となりました。(その後、日本軍によって満州国に編入されると再び奉天と改称。日本の敗戦で中華民国領に復帰した1945年にまた瀋陽となりました)
歴史的には、戦国時代の王朝:燕がこの地域から発生して拡大していきました。後に燕は秦によって滅ぼされ、以降は基本的に主要な中国王朝の一部として歴史に登場します。
2.吉林省
省都は長春です。
漢王朝の時代には、ツングース系扶余族の支配地として知られ中国文化圏には入っていませんでした。それから先も高句麗の領土であった時代が長く、高句麗の滅亡後は渤海の領地となりました。その後は契丹族、次いで女真族(満州民族)の支配地として金王朝の勢力圏となり、中国主要王朝の一地域となったのは清が建国された時代になります。(主要王朝といっても清は女真族の王朝ですから、この時点でも中国に同化してはいなかったということですね)
ちなみに長春は、満州国時代に首都と定められており、その間は新京と改名されています。
現在の長春は27の国立大学が建ち並ぶ学園都市としても有名で、農業や漁業から工業まで多くの産業が活発に行われています。
3.黒竜江省
省都はハルビンで、アムール川を挟んでロシアと国境を接する中国最北端の行政区分として知られています。
農業が非常に盛んで、中国の食料生産地として重要な役割を担っています。主な生産品目は黒大豆や小豆。
歴史的には吉林省と同様に、高句麗・契丹族・女真族などの支配地となっていた期間が長く、主要な中国王朝の一地域として確立したのは清朝の時代に入ってからのことです。
ハルビン駅では、日本の首相を歴任し、当時枢密院の議長だった伊藤博文が安重根に暗殺された事件が知られています。
以上、中国東北地方に属する3省の地理に関する情報でした。これらを知った上で東北部の世界遺産を見ていくことで、中国の文化をより深く味わえることでしょう。
◎中国東北部にまつわるエピソード
〜征服王朝:金の盛衰
皆さんは征服王朝という言葉をご存知でしょうか? これは、漢民族ではない異民族の王朝でありながら中国本土に領地を獲得した4つの王朝を指す言葉です。代表的な2王朝はモンゴル民族でありながら中国全土を支配した元・満州民族でありながら同じく全土を支配した清ですが、あと2つの征服王朝が中国史上に登場します。これらの王朝は、中国全土を獲得するまでには至りませんでしたが、漢民族固有の領土を一部獲得したことで征服王朝のカテゴリーに入っています。
そのうちの1つは契丹族の遼で、残る1つがここでお話しする金です。これらは、いずれも中国が宋の統治下にあった時代の王朝で、いずれも宋と激しく戦っています。
まずは、この時代に中国の主要王朝であった北宋について簡単に紹介しましょう。北宋は趙匡胤という軍人が建国した王朝で、五代十国の戦乱を平定して成立しました。激しい戦乱をようやく終わらせた趙匡胤は、国内の反乱を抑止するために徹底した文民統制(シビリアン・コントロール)を敷き、軍の肥大化を防ぐ統治を行っていました。北宋が成立する前の五代十国時代には数々の王朝が「軍の離反」や「地方の内乱」であっという間に滅んでいますから、この判断自体は賢明だったといえるでしょう。しかし、後の北宋皇帝は時代が移り変わったことにも構わず、文治主義の下に文化ばかりを追い求めてしまい、気付けば北宋は中国史上で最も軍事力の乏しい王朝になっていたのです。
北宋は異民族を平定することすら出来ず、契丹族:遼の南進を受けて苦戦しました。結局、北宋は「遼に絹・銀を贈る代わりに、北宋を兄・遼を弟とする盟約を結ぶ」という方法でこれを切り抜けました。(澶淵の盟)明らかに遼が優位な内容でありながら北宋が目上という形式を取っていることに違和感を感じる人も多いと思いますが、要するに北宋は実益よりもプライドを取ったということになります。その後、今度はタングート族:西夏が北宋に反旗を翻しますが、この時も北宋は同じ方法で和平に持ち込みました。やはり「北宋が西夏に絹・銀・茶を贈る代わりに、北宋を君主・西夏を臣下とする盟約を結ぶ」というものです。(慶暦の和約)
金が登場するのは、まさにこのすぐ後の時代です。金は女真族(満州民族)をまとめ上げて国家を樹立したのですが、その際に国境を接する遼とは激しい対立を繰り返してきました。その頃は上で述べた通り、北宋は遼に財貨を支払っている状態で、しかも燕雲十六州と呼ばれる中国固有の領土を遼が保有している状態にありました。(これが、遼が征服王朝に名を連ねている理由でもあります)要するに、金にとっても北宋にとっても、遼は都合の悪い存在だったわけです。そこで、金と北宋は同盟関係となり、遼を挟撃(挟み撃ち)することにしたのでした。遼の領地は分割し、燕雲十六州は北宋に譲るという条件を承諾した金は、遼に攻撃を仕掛けます。北宋の軍事力は相変わらずで燕雲十六州すら攻略できずにに苦戦していましたが、金が代わりに遼の首都である燕京を陥落させて遼を滅亡に追い込みます。勝利した金は約束通り(北宋がほとんど役に立たなかったにも関わらず)自分たちが攻め取った燕雲十六州を北宋に譲り渡しました。
しかし、この後に北宋が取った行動は驚くべきものでした。今度は金を牽制するため、遼の残存勢力と同盟したのです。要するに、北宋は異民族王朝すべてを弱体化させたいだけで、金との同盟関係を守る気などなかったわけですね。
金はすぐさま北宋に攻め込み、首都の開封を包囲します。金に全く歯が立たないことを悟った北宋は慌てて和平交渉に入ると、金は北宋を許して東北部へと戻りました。しかしながら、金の軍勢が撤退したとたんに北宋はまたも金に内紛を起こさせようと画策したのでした。ここに至って、金は北宋への総攻撃を開始。わずか40日で北宋の都:開封を陥落させました。ここに北宋は滅亡し、残った勢力は南側の江南地域へと逃げ延びて臨安を都として南宋を建国。宋の中華統一は崩れ、華北を金・江南を南宋が領有する時代へと移行したのです。後の和平交渉では紹興の和議が結ばれましたが、この内容は「南宋は金に歳幣を支払い、さらに南宋が金に対して臣下の礼をとる」というものでした。ここに至り、南宋はついに実利も名誉も失ったのでした。
しかし、金の繁栄が長く続いたわけではありません。中国東北部を支配していた頃は北宋を一蹴するほどの強国だった金も、中国の北部全域を統治するほどの国力はなかったのです。徐々に北のモンゴル勢力に駆逐され、国内で内乱が頻発するようになっていきました。折りしも、この時代におけるモンゴル帝国の皇帝(大ハン)はチンギス=ハン。金は抵抗も虚しく南へ南へと追いやられていきます。そして1234年、モンゴル帝国の2代皇帝オゴタイ=ハンが送り込んだトゥルイ(チンギスの四男)の攻撃によって金は滅亡したのでした。
しかし、満州民族として中華統一に後一歩と迫った金の偉業は、後の時代へと引き継がれます。金の滅亡から400年近くが過ぎた1616年、女真族をまとめあげたヌルハチが自国の国号を「金」と定めます。(北宋を滅ぼした時代の「金」と区別するために「後金」と書くのが普通です)これは偶然ではなく、かつて女真族を強国へと発展させた「金」への憧れがあったからに他なりません。この「後金」は急速に勢力を拡大して中国北部を制圧し、1644年には北京へと入城。金が成せなかった中華統一を果たすのです。「え? そんな後金なんて王朝あったっけ?」という方のために、そろそろ種明かしをしましょう。後金は1636年、国号を改めて別の名前に変わっています。さて、近代に中華統一を果たした女真族(満州民族)の王朝といえば……もう、お分かりですね? そう「後金」は、268年間にわたって中国を統治した、あの「清」の前身だったのです。
以上、中国東北部に関連した地理・歴史のエピソードでした。次ページからは、中国東北部の世界遺産を実際に見ていきたいと思います。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。

